音楽好きの後輩の影響を受け、ここ1ヶ月ぐらい、オーディオの事を考えている。
いや、正確には、「音楽のことを考えている」。
思い返せば、2000年付近まで、僕はよく音楽を聴いていた。特に、この頃に出会ったレッドホットチリペッパーズは、僕のお気に入りのバンドとなり、そして、いつも僕より10年ほど先輩の、やがて老いて行く僕の、目指すべき未来、敬意を払うべき先輩、生き方を指し示してくれる存在であった。
いったい、10年後、僕は何をしているのだろう。
その答えは、いつも手元に無い。気がつけば、妻をめとり、子を持ち、組織でも多少は重要な役割を担うようになり、そして、僕は十分年をとってしまっている。
そんな僕ではあるけれど、実際、僕の中身は12歳の頃からそんなに変わった気もしないでいる。
いったいぜんたい、みんなはどうなのだろう。どこか遠いところに来たような、そんな感覚で日々を暮らしているのだろうか。
ある友人は、昔より露骨に人間が造り上げた貨幣経済にとりこまれ、金を持つ持たないが価値観の基準になっているように思う。ある友人は昔では到底考えられないほどのしっかりした考えで社会に貢献したいと願うようになっている。
そして、子を持った母親となった友人たち(妻を含む)は「母としての本能」に目覚めているようにも見える。その姿は若さだけを求める若者にはきっとわからないだろう、美しさを兼ね備えている。
さて、音楽の話に戻ろう。
2005年頃、僕はなぜか音楽を聴かなくなった。その理由は明確だ。その時、僕は、音楽はきらめきを失ってしまった、そんな風に感じていた。
何を聴いても、そんなに感動しない。楽しくない。僕はその他の事で忙しくもあったので、結局音楽を聴くことをやめた。
どこかの本で読んだ話であるが、音楽を聴き続けると、最終的に行き着くのはクラシックであり、そして、現時点の音楽、そして未来の音楽が、あの時代に作られた音楽を超えることが無いと悟るようになると言う。
いささか、これは暴力的な意見なのだろうけど、それでも、どこか真実味がある。特に昨今の音楽業界は、誰かが何かを間違えてしまったかのように、おかしな方向へ向かっている。
音楽業界は「流行らせたいもの」をごり押しする。オーディオ業界は高級な機器を売るためにあらゆる手で「存在しない価値観」を生み出そうとしている。
「欲しい人」がいない世界でなんとか物を売ろうとしても、それはいびつな結果しか産まない。
さて、いつも脱線ばかりの発散脳しか持たない私のことであるので、音楽のこと、に戻ろう。
結論から言えば、最近、私はまた音楽を聴き始めることになった。
それには、重度の音楽マニアである後輩の影響が多分にある。
その後輩に薦めてもらったCDは、僕の2005年の絶望を、暗闇を照らすには十分の光明となり、停まった時計の針は2005年から2013年に向かってゆっくりと動き出した。
後輩がいなければ、今僕は音楽を聴いていないし、新しい音楽のある世界にも進まなかっただろう。そういう意味で、本当に出会いとは不思議なものだな、と心から感じている。
願えば夢がかなうなんて嘘だって知っている。ただし、願わなければ、未来は閉じてしまうことも知っている。良い音楽なら聴きたい、そう思う気持ちが、12歳の頃からロックを聴いていたその感覚が僕の運命を押し上げる。
Serph、amazarashi、In Flames。僕の目を再び啓かせた、この時代を担う音楽家達、ありがとう。
そして、僕はオーディオの事を考える。
正直なところ、2012年前半までの僕は、「まともな音楽を聴く機器」を何も持っていなかった。
そう、まともなスピーカーすら持たず、3000円で買ったイヤホン(だが、このイヤホンが大好きでもあるのだが。安さは正義だ。)とiPhoneで数年間、レッドホットチリペッパーズとジャパハリネットくらいしかまともには聴かなかった。
音楽は、ただ無音を埋めるだけの役割のみを果たし、それ以上を求める事も特にはなかった。
そして、今、音楽を聴くために、少しだけ投資してみた。おそらく金額でいれば、10万円程度だろうか。このうち、スピーカーには2万程度しか使っていないので、オーディオマニアからすると、なんて馬鹿な配分だろうといわれてしまうだろう。正直、半分くらいは勉強代として消えているような気もする。そして、いい歳なんだからもっと金を使ってくれ、と皆が言っている気もする。
それでも、それで僕のようなニワカの人間には十分だ。
全てが変わった。
12歳の時に聴いていたブルーハーツ。バンドブームで聴いていた筋肉少女帯、エレファントカシマシ、数々の名も無きバンド達。学生時代に聴いていた、忌野清志郎、UA、レイジアゲインストザマシーン、スピッツ、サニーデイサービス、Gorillaz。ジャパハリネット、そして、やっぱりレッド・ホット・チリペッパーズ。
全てのCDを再度iTunesより取り込み直し、つたない知識でそろえたスピーカーとアンプで僕は聴く。
そこには10年前、僕が音楽を聴かなくなった絶望から続く一筋の光が差し込む。
そう、何も絶望することなどなかったのである。僕はまだまだ何も聴けていなかったのだから。フィオナ・アップルはなんて美しいのだろう。そして、2000年に死んでしまった友人もこのアルバムが好きだったことを思い出す。
一つの出会いが力を産み、気付きが未来へつながる。
だから、人生は面白いと思ってしまう。そこに本当は絶望なんて無い。
10年後、僕は何を聴いているだろう。正直、また何も聴いていないかもしれない。
NO Music NO Lifeなんてまったく思わない僕だ。ただ僕は懐かしい歌を歌っているだろう。
そして、何をやっていても構わない。その時も前向きに面白いと思うことを実践できているのなら。
10年の歳月が何も変えなくても、僕は構わない。
ただ僕は懐かしい歌を歌っているだろう。
そんなものが人生なのだと、今日、思う。